泥魚亭好日記 〈美しさを楽しみ夢を育てる〉



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最初のレポート

 大学に入って間もなく、教育学の時間だと思うが、「現在の日本の教育問題について」というテーマでレポートの提出が求められた。それが大学で最初に提出したレポートだった。
 何を書いていいのか全くわからず、小学生の時の体験を書いた。私は、小学校の時珍しい体験をしていた。

 何故なのか、よくわからないが、田舎の私の小学校では、普通児童と学力の劣っている児童と一緒になっている特別クラスが4、5,6年に1クラスだけ設けられていた。そのクラスでは、一人の普通児童が二人の劣っている児童を家庭教師のように週のうち何回か教える時間があった。私もその教える一人で、4年から6年生まで3年間そのクラスにいた。そのクラスでは6年生で、一桁の足し算などを教えたりしていた。

 その授業にどういう意味があったのか、よくわからないが、その時教えられる児童の家庭が
大変貧しかったことが印象に残っている。時代的にはまだ戦後も10年経ったばかりで、みんな貧しかったのだが、特に彼らの家庭はひどかったように思う。畑仕事を手伝わなければならず、学校を休む者もいた。衣服は着たきりでぼろぼろの子が多かった。

 学力の低さと貧困との因果関係をストレートにいうことは出来ないだろうが、私にとっては、それが現実の体験であった。
 今考えてみれば、レポートを提出した年は、東京オリンピックの昭和39年で、まさに日本の高度経済成長の時期にあたり、そんなことはもはや日本においては「現在の教育問題」などではなかったに違いない。もらった評価は「良」であった。

 私は、今そのクラスにいたことをに感謝している。小学校の高学年の時期に、「思いやる」「助ける」「役割をつくす」などといったことを、担任の教師から叩き込まれたからである。当り前のことをやらないと頬に平手が飛んできた。
 若い小学校の教師たちが理想に燃えてそんなクラスを作って実験をしていたのであろう。問題点も多かったと思うが、教師たちの熱い思いが伝わってきて、子供なりに必死で応えようとした。

 先日テレビで見た小学校6年のクラスでは、叱る先生に「ウザッたい!」といって教室を出て行く子供がいた。その子供に先生は何も言わないのである。
 今は親も先生も社会も寄ったかって子供をダメにしていく。こんな時代がかつてあったのだろうか。しかも当事者としての罪悪感などほとんどなくヘラヘラしながら事態は悪化していく。恐ろしい時代である。
 
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by project_oij | 2006-07-31 12:11

チャップリンの言葉

 NHK・BSでチャップリンのドキュメンタリー番組を見た。無声映画当時のNGフィルムや撮影中の演出振りが撮られた貴重な映像で構成されていた。
 実に細やかな演出、ベストカットを求めて何度も何度もNGを出す。繰り返すうちに最初の設定がすっかり変わっていくこともあるスゴミのある即興の創作性を見ることが出来た。

 見ているうちに学生時代に読んだ「チャップリン自伝」を思い浮かべていた。作品が完成するたびに、そのイメージを打ち消すため仕事を離れ何日も何日も遊びに没頭しなければならなかった、というような内容だったと思う。終わってしまった自己のイメージをものすごいエネルギーで否定する。その凄まじさに驚嘆したのだが、今回の撮影振りを見て、納得できたように思う。

 チャップリンは「悲劇には、何か美しさを感じる」と言ったそうだ。
 喜劇王チャップリンが、悲劇に何故美しさを感じるのか。
 喜劇は論理的に作られていく。予想を越えて何度も何度も「失敗」や「暴力」のシーンが積み重ねられておかしさが倍加していく。喜劇はそういう意味で知的な営為であるように思う。「理」の世界である。
 それに比べて、悲劇は、多くの場合、ひたすら相手のことを思いやるが、それが達成されないことによって発生する。「情」の世界である。己を虚しくして相手のことを思いやる。達成されないかもしれないが、何の報酬を求めることなく相手につくす。こんな愛情のあふれた姿に美しさを感じる、ということではないか。

 先日沖縄に出張した折、機内誌を読んでいたら、フランスの女性カメラマンの作品展が紹介されていた。彼女は、盲目の方たちに「あなたにとって美しさと何か」と問いかけ、見えない人が応えた内容を当人に代わって撮影し、コメントと共にそれを当人の顔と並べて展示したようだ。
 紹介されていた作品は、「私にとって美しさとは息子である」と応えた父親とその息子の写真であった。愛情の結晶こそ美である、とこの父親もチャップリンと同じことを語っているように思う。

 愛情によって生まれる美。物騒な世間のニュ―スは、そんな美はもはや喪失した、と警鐘を鳴らしている。

 
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by project_oij | 2006-07-24 17:08

中田英寿の引退

 昨日、突然中田英寿が引退宣言をした。予想もしない行動に、周囲の人たちを驚かせた。しかし、今日になると、「中田らしい引退の仕方である」「美しい引き際である」という意見が大勢を占め、彼の功績を称え、世界のビッグプレーヤーを集めた華やかな引退試合などを開催するなどのニュースが流れている。
 かつてのチームメイトの談話を聞いていると、「正論を吐くが、言い方に難があって、みんなの理解が得られなかった」という話が一番多かったように思う。要するに「スゴイ奴だが、イヤな奴」というタイプのようだ。

 テレビでの発言を聞いていても、「サッカーは走らないと勝てません」と身もふたもない言い方をして、日本チームの敗戦を批判してみせる。冷静で正確な批評に誰も文句は言えないが、”そうは言ってもよくがんばったんじゃないの”などと言いたい心情派にとっては、なんともやりにくい相手に違いない。
 そんな彼が、日本代表として勝てなかった「責任」を感じて辞めると言う。責任を取れといってもどこかの日銀のトップのようにまるでその気のない御仁が多いこの時代に、なんという潔さ。空々しくただ頭を下げるカタチばかりの責任の取り方(?)しか見ていない我々にとっては、溜飲の下がる思いのする引退宣言である。やっぱり日本人はハラキリを連想させるようなスパっとした責任の取り方を好きであるということだろうか。
 そうなのだろうか? この責任の取り方はそういうことなのだろうか?

 私が彼に感じるのは、今までのスポーツヒーローと全く違って「よく自らを語るヒト」という点である。
 恐らく寡黙でいて中田のようなタイプであれば、それほどファンは多くなかったに違いない。テレビなどで語る内容は、一見冷静そのものに見える「イヤな」ところはあるが、実は本音において「アツい」心情にあふれていることがブログなどを読むとよく解る。そこにみんなしびれる。賢さを感じる。(ただ、ブログの文章は彼自身が書いていないのでは? きれい過ぎて妙に皮膚感覚のしない文章である。誰か文書の得意なヒトの代筆でしょうな)
 
 このスポーツヒーローは、少し大げさにいうと、「近代的な市民」、独立した個人の価値観で出処進退を決めることの出来る民主主義の申し子なのかもしれない。戦後間もなし、GHQの誰かが日本は民主主義という点からすると「赤子」であるというようなことを言っているが、そういう意味で日本人が60年を経てやっと成人になったということか。青年のころからずっとヨーロッパで受けた「市民教育」の賜物かも知れない。
 彼の責任の取り方には悲壮感がない。日本代表としてその義務を果たしえなかった市民が、契約不履行で、その責任を取って選手としては引退するという、そんなドライさをどこか感じる。そういう価値観を彼が持っているということではないか。
 その姿は確かにカッコはいいが、しかしどこか、日本人が持っている「責任」という言葉に対する重さを感じない。。妙に軽い。引退という事実は重いが、その因果関係をつないでいるものが軽い。どうでもいいことかもしれないが、これは進んだ(?)「近代人」に対する私の違和感なのかもしれない。
 
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by project_oij | 2006-07-05 19:20


横山征次がOIJの理想をめぐる日々の想いを綴ります
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