携帯電話で簡単に写真が写せる、素人でもハイビジョン撮影ができるからなのか、近頃はいつでもどこでも至るところで撮影がされている。
いつかテレビで見たが、幼稚園の運動会の前夜など、撮影の場所とりで徹夜の親が出るのだとか。映像による“思い出づくり”には大変な労力を費やしておられるようだ。
しかし、ほんとに「思い出」を作っているのだろうか。
デジカメは2ヶ月、携帯電話は1ヶ月、車は8ヶ月で値崩れするそうだ。だから、キャノンは売り出し段階でどれだけたくさん売り切るかに社運を賭けているし、携帯などは1ヶ月を過ぎるとたちまち10分の1まで値下がりするというから、それこそ新機種売り出し時期に社の命運をかける。
スピードが全て。買う方も、買わせる方も、新機種に血眼になる。新しさへの欲求をベースにした循環経済である。
現代はいつも「現在づくり」である。資本主義というものは、「現在」今の消費衝動を演出することで成立している。マクドナルドの食べたい時が食べる時ではないが、買いたい時が買う時なのである。
テレビは、今を楽しみ夢中にさせることに懸命である。刺激と興奮で毎日が過ぎていく。
「思い出」などを振返る閑などないのである。膨大な量の写真を、昔のようにしみじみ見直しながらアルバムを作っている人などどれくらいいるのだろうか。
「思い出づくりをしたい」という「現在」がすぎていく。そんな現在はただの現在。薄っぺらな現代。過去のない現在である。瞬間的な時間しか存在しない生き方に、現代人はどこか不安感があり、無意識の内に人々を「思い出づくり」という過去願望に走らせているのかもしれない。
今、若い諸君は、「物語」を語ることが苦手なようだ。「思い出を語ってください」なんていうと、「別にありません」などといった返事が返ってくる。過去を忘却しているのである。そのように生きているのである。
子供のような大人たちとは、思い出を持たないように育ってしまった大人ということかもしれない。