「打撃の真髄ー榎本喜八伝」(松井浩著・講談社)を読んだ。
日本プロ野球で最年少2000本安打を記録した名選手榎本喜八の話である。
1000本安打の記録では、イチローよりも早く達成している。
長島・王の一世代前の選手で、名前や活躍ぶりは何となく知っていたが、かくも凄まじい”求道の人”であったのかは知らなかった。
松井さんの関心は、榎本という天才打撃職人への人間的興味が第一であるのはもちろんだが、それ以上に、日本人の身体に対しての深い技術探求、つまり、人間は自らの肉体を自らの意志と方法でどこまで自由にコントロールできるかを、榎本の求道の過程の中に探ろうとしている。
4、5年前から武術に関心を抱くようになり、柳生新陰流に関する本などを読むようになっていたので、わりあいスムーズに読みすすめることが出来たが、通常は「臍下丹田」などといった、耳慣れない言葉がたくさん出てくるこの本は、まさに榎本選手が孤立していったように、若い世代には難しい内容であるに違いない。しかし、陸上の末続選手がナンバ走りに、巨人の桑田投手が古武道に飛躍のヒントを求める時代である。今の時代であればもう少し彼の言動は理解されていたであろう。
武術の世界では、奥義を極めた人物に「達人」という尊称を与えるが、それがいかにスゴイコトであるのか、この本は教えてくれる。榎本が、死ぬほどの努力によって、技術的身体的には一度達人の域に手が届くが、その時期は実に短く、それから後は、転げるようにその域から落ちていく。選手として破綻してしまうまで落ちていく。
榎本の悲劇は、結局「技」「体」を極めることは出来たが、「心」を極めることの出来なかった点にあるのではないか。様々な東洋的な訓練で、身体をコントロールする技術を達成した(と思われた)時、その現実に自ら感動し、”快感”に浸ってしまう榎本の姿が描かれているが、まさにその”快感”そのものに落とし穴があったような気がするのだ。
それ以後は、榎本は、その”快感”を追い求め、そこに達しない自らを責め、達成できない緊張感が、「技」「体」の理想の形を忘れさせ、達人の域からどんどんと遠ざけていったように思えるのである。
すべてのことに心が囚われることなく、「無心」になれるとは、人間にとっていかに大変なことか。千日回峰などの荒行があるのはその大変さの証であるに違いない。
達人とは、結局、”今が頂点である”などと満足することなく、常に無心に生き続けることのできる人ということになるのではないか。そういう「心のあり方」のできる人のことではないか、という気がする。優れた芸術家が「あなたの一番気に入っている作品はどれか」と聞かれると「強いていえば最新作だが、まだない」などと応えるが、それは、そういうことなのではないか。
少林寺拳法の達人、OIJに参加いただいている禅林学園の山崎校長にいつかお考えを伺いたいと思う。