関西の医療少年院で治療に当たっている精神科医の方が、最近の少年犯罪者と接して気のついた事として、次のような特徴を語っていた。
①孤立を好む
②犯した犯罪の大きさと眼前にいる少年の弱弱しい姿にギャップがある
③思い出を語れない
④未来像を失っている
すべて、何となく想像のつく事だが、特に③の思い出を語る言葉を持てない姿に痛ましさを感じる。
しかし、その姿は彼らの特有の特別な事とは思えない。現代人は、実はみんな「思い出」という物語をあまり持てなくなっているのではないか。デジカメや携帯電話などの進歩で何時でもどこでも瞬間の姿を捉えなんでもかんでも残そうとするが、それがどういうシチュエーションで生まれたのか、語れる事がなかったりするのではないか、という気がする。
思い出という起承転結を持った「ストーリー」ではなく、発作的な衝動や刺激で人は動いているのではないか。例えば、アザラシがいたといっては川や海に押しかけ「かわいい!」などとバカ騒ぎをするが、一瞬の内に興味は他に移るなどの現象である。
今盛んに「京都、行こう」というCMが流れる。京都「に」行こうでもなく、京都「ヘ」でも、京都「は」でも、京都「なら」行こうでもない。京都と、思い立ったら行こう、というわけで、いわば”衝動旅行”の勧めである。意識的な方向性や目的性や主体性を示す助詞の欠けたコピーは、現代の衝動的な行動特性を見事についたコピーである。優れたライターの仕事に違いない。
つまり、現代の多くの情報(特にテレビ情報)は刺激によって欲望などの本能をつかさどる脳幹に働きかけ、理性や創造をつかさどる前頭前野に働きかけてこない。だから、言葉として表現できる記憶として、思い出として残っていかないのである。
マクドナルドのCMなどはその際たるもので、食べたい衝動に駆られたデパートのエレベーターサービス係りの女性が、お客さんがいるのにドアを閉めたままハンバーガーをむさぼるのである。
現代は情報過多の時代である。ものを買わせることを目的にあの手この手、よってたかって煽りたてる。まだ、「可塑」的な状態にある気弱な少年たちの中に、それによって迷い踊らされ傷つく者が出てきてもちっとも不思議ではないのである。、欲望を煽られているのに、いろいろな意味で「辺境」にいる者たち、実現の可能性を摘み取られている者たちの中から、絶望的な暴発者が生まれるというのも、必然性があるのではないだろうか。
先の精神科医は、「可塑」的であるがゆえに、全員とはいかないが、自らと向き合い語る言葉を持ち、未来への希望を抱くようになれば、少しずつ回復するという。
プロジェクトOIJの目的の一つにしている「地域活性化」は、人々が、地元に生きている喜びや生きがいを感じる「いい思い出」を作る運動でもあると考えている。